沖縄 ひろし

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百十踏揚(ももとふみあがり)の墓
百十踏揚の墓

表示版より
 百十踏揚は、尚泰久王の長女で勝連按司阿麻和利の妻であったが、阿麻和利が倒された後、鬼大城といわれた越来城主の大城賢雄に嫁いだ。大城賢雄が尚円王に破れた後は、兄弟の三津葉多武喜と玉城字當山の大川グスクで暮らし、その後、現在の仲栄真の屋敷で共に暮らしたといわれている。
 百十踏揚の墓は、西ヒチ森の大岩に安置されていたが、昭和三十七(1962)年頃に中学校校舎建設のため陸上競技場東側にある仲栄眞腹門中墓の側に三津葉多武喜と共に安置されている。
沖縄県南城市教育委員会

百十踏揚の墓





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| 13:53:26
浦添ようどれ
浦添ようどれ

表示板より
 浦添ようどれは琉球王国初期の王の墓で、極楽陵ともいいます。咸淳年間(1265〜1274年)に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半〜15世紀前半に石垣がめぐらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。
 ようどれの頂から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かつてはトンネル状の通路であった暗しん御門を通って二番庭にでます。そして中御門と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭にいたります。
 墓室は岩盤に大きな横穴を二カ所掘り、前面を石積みで塞いだつくりです。西室(向かって右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されています。
 去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後、琉球政府によって墓室が修復され、平成12年〜17年には墓庭の石積が復元されました。
「ようどれ」とは琉球の言葉で夕凪のことで、「ユードゥリ」と発音します。

浦添ようどれ,沖縄,墓,城跡
浦添ようどれ,沖縄,墓,城跡





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| 11:39:16
大城按司(うふぐすくあんじ)の墓
 今回は大城按司(うふぐすくあんじ)の墓です。
 ちょっとわかりにくい場所にあります。

沖縄県教育委員会並びに大里村教育委員会の表示板より

 大城按司真武は三山時代の人で、14世紀中期から末期ごろの大城城の城主であったが、麻姓家譜によると、島添大里按司(大里城主)との戦いで敗れ、稲福村の西で自害したという。亡骸は同地に葬られ、小石を円く積み上げて塚にしたという。その塚が現在の墓の
原形といわれているが、いくたびか改築され、1892年(明治25年)に現在地(大里村字大城)に移築された。
 この墓は琉球石灰岩の岩山をくり抜いて墓室をつくり、全面は切石積みとし、上部は以前の塚を模してドーム状の石積みとなっている。その形から俗に「ボウントゥ御墓」とも呼ばれており、沖縄の一般の墓とは異なる独特の形式をもつ墓として貴重である。


 沖縄では亀甲墓のように墓が独特の形をしていますが、この大城按司の墓は県内でも他に見られることがないドーム型の墓です。

案内票

入口には琉球政府時代の標識が立っています。

遠景

森の奥にドーム状の墓が眠っています。

斜め

下部は四角の墓ですが、上部はドーム状になっています。

正面

正面からの按司の墓です。


場所は南城市大里大城にあります。県道86号線を南風原から大里の方に向かうと、大城部落に入ってしばらくすると道路の左側に茶色のシーサーが鎮座しています。そこを左に入り、少し進んだところの交差点を北上すると、やがて「大城按司の墓」の小さな標識が見えてきます。そこを右折して約1kmちょっといくと大城按司の墓です。途中、道路が工事中になっていますが、そのまま進むとたどり着きます。
厚生年金施設のウェルサンピアの直ぐ近くなので、そこを目指していくとわかりやすいでしょう。


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| 23:23:45 | Trackback(0) | Comments(0)
大立大殿みゃーか 宮古島
大立大殿みゃーか

標示版より
 大立大殿みゃーかは、俗称・布干堂(ヌヌドー)にあって、天順年間(1457-1464)から成化年間(1465-1487)にかけて宮古島の主長をつとめた大立大殿恵幹の墓と伝えられている。
 このみゃーかの形状は、巨石で方形の石室(約150cm×約240cm、高さ約80cm)を造り、上部に一枚の蓋石(約150cm×約220cm、厚さ約15cm)を被せて、更に、石室の周囲に巨石を用いて外郭を設けてあった。
 大立大殿恵幹は童名を真佐利といい、1390年、宮古から初めて中山に朝貢した与那覇勢頭豊見親恵源(童名真佐久・白川氏の祖)の一子泰川大殿の第三子にあたる。父・泰川大殿が病のため隠棲、更に、兄二人も早く死去したため恵源の家統を継、天順年間には中山王(尚泰久)から宮古島の主長に任じられて70余歳まで朝貢等の公事を務めたと「白川氏家譜正統」に記されている。
 また、「宮古島記事仕次」によれば、大立大殿は、真誉の子豊見親の第一子空広(仲宗根豊見親玄雅・忠導氏の祖)を7歳の頃から自らの許において養育し、更に、17歳の頃、家権を委ねて政務をとらせたとあり、大立大殿の後、空広は中山王(尚円)から宮古島の主長に任じられたと記されている。
 15世紀後半における中山と宮古の関わり、及び、白川・忠導、両氏の関係はもとより、各地に点在するみゃーかと関連して宮古の歴史を考察する上でも、この大立大殿みゃーかは重要な遺跡である。

宮古島,史跡,観光地


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| 22:12:04
知利真良豊見親の墓
今回は宮古島の遺跡です。

標示版より
 1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の墓として知られています。知利真良豊見親はオヤケアカハチの乱に父とともに従軍、のち次兄祭金が4年在勤したあとをうけて八重山頭職となり、彼の地で没したと伝えられています。近接する「仲宗根豊見親の墓」とともに宮古在来の墓「みゃーか」から横穴式にうつる中間形式を示しています。ツンプン(ひんぷん)の跡をとどめているところから、俗に「ツンプン墓」ともよばれています。保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知るうえでも貴重な墳墓です。前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられています。その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏と称しています。なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。

知利真良豊見親の墓


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| 23:58:30 | Trackback(0) | Comments(0)
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