沖縄 ひろし

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浦添ようどれ
浦添ようどれ

表示板より
 浦添ようどれは琉球王国初期の王の墓で、極楽陵ともいいます。咸淳年間(1265〜1274年)に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半〜15世紀前半に石垣がめぐらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。
 ようどれの頂から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かつてはトンネル状の通路であった暗しん御門を通って二番庭にでます。そして中御門と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭にいたります。
 墓室は岩盤に大きな横穴を二カ所掘り、前面を石積みで塞いだつくりです。西室(向かって右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されています。
 去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後、琉球政府によって墓室が修復され、平成12年〜17年には墓庭の石積が復元されました。
「ようどれ」とは琉球の言葉で夕凪のことで、「ユードゥリ」と発音します。

浦添ようどれ,沖縄,墓,城跡
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| 11:39:16
大城按司(うふぐすくあんじ)の墓
 今回は大城按司(うふぐすくあんじ)の墓です。
 ちょっとわかりにくい場所にあります。

沖縄県教育委員会並びに大里村教育委員会の表示板より

 大城按司真武は三山時代の人で、14世紀中期から末期ごろの大城城の城主であったが、麻姓家譜によると、島添大里按司(大里城主)との戦いで敗れ、稲福村の西で自害したという。亡骸は同地に葬られ、小石を円く積み上げて塚にしたという。その塚が現在の墓の
原形といわれているが、いくたびか改築され、1892年(明治25年)に現在地(大里村字大城)に移築された。
 この墓は琉球石灰岩の岩山をくり抜いて墓室をつくり、全面は切石積みとし、上部は以前の塚を模してドーム状の石積みとなっている。その形から俗に「ボウントゥ御墓」とも呼ばれており、沖縄の一般の墓とは異なる独特の形式をもつ墓として貴重である。


 沖縄では亀甲墓のように墓が独特の形をしていますが、この大城按司の墓は県内でも他に見られることがないドーム型の墓です。

案内票

入口には琉球政府時代の標識が立っています。

遠景

森の奥にドーム状の墓が眠っています。

斜め

下部は四角の墓ですが、上部はドーム状になっています。

正面

正面からの按司の墓です。


場所は南城市大里大城にあります。県道86号線を南風原から大里の方に向かうと、大城部落に入ってしばらくすると道路の左側に茶色のシーサーが鎮座しています。そこを左に入り、少し進んだところの交差点を北上すると、やがて「大城按司の墓」の小さな標識が見えてきます。そこを右折して約1kmちょっといくと大城按司の墓です。途中、道路が工事中になっていますが、そのまま進むとたどり着きます。
厚生年金施設のウェルサンピアの直ぐ近くなので、そこを目指していくとわかりやすいでしょう。


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| 23:23:45 | Trackback(0) | Comments(0)
大立大殿みゃーか 宮古島
大立大殿みゃーか

標示版より
 大立大殿みゃーかは、俗称・布干堂(ヌヌドー)にあって、天順年間(1457-1464)から成化年間(1465-1487)にかけて宮古島の主長をつとめた大立大殿恵幹の墓と伝えられている。
 このみゃーかの形状は、巨石で方形の石室(約150cm×約240cm、高さ約80cm)を造り、上部に一枚の蓋石(約150cm×約220cm、厚さ約15cm)を被せて、更に、石室の周囲に巨石を用いて外郭を設けてあった。
 大立大殿恵幹は童名を真佐利といい、1390年、宮古から初めて中山に朝貢した与那覇勢頭豊見親恵源(童名真佐久・白川氏の祖)の一子泰川大殿の第三子にあたる。父・泰川大殿が病のため隠棲、更に、兄二人も早く死去したため恵源の家統を継、天順年間には中山王(尚泰久)から宮古島の主長に任じられて70余歳まで朝貢等の公事を務めたと「白川氏家譜正統」に記されている。
 また、「宮古島記事仕次」によれば、大立大殿は、真誉の子豊見親の第一子空広(仲宗根豊見親玄雅・忠導氏の祖)を7歳の頃から自らの許において養育し、更に、17歳の頃、家権を委ねて政務をとらせたとあり、大立大殿の後、空広は中山王(尚円)から宮古島の主長に任じられたと記されている。
 15世紀後半における中山と宮古の関わり、及び、白川・忠導、両氏の関係はもとより、各地に点在するみゃーかと関連して宮古の歴史を考察する上でも、この大立大殿みゃーかは重要な遺跡である。

宮古島,史跡,観光地


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| 22:12:04
知利真良豊見親の墓
今回は宮古島の遺跡です。

標示版より
 1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の墓として知られています。知利真良豊見親はオヤケアカハチの乱に父とともに従軍、のち次兄祭金が4年在勤したあとをうけて八重山頭職となり、彼の地で没したと伝えられています。近接する「仲宗根豊見親の墓」とともに宮古在来の墓「みゃーか」から横穴式にうつる中間形式を示しています。ツンプン(ひんぷん)の跡をとどめているところから、俗に「ツンプン墓」ともよばれています。保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知るうえでも貴重な墳墓です。前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられています。その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏と称しています。なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。

知利真良豊見親の墓


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| 23:58:30 | Trackback(0) | Comments(0)
玉陵(たまうどぅん) 世界遺産
玉陵(たまうどぅん) 世界遺産

 今回は琉球王朝の王家尚氏の墓「玉陵(たまうどぅん)」です。首里城に隣接しているので行ったことがある人がいると思いますが、少し離れているので、首里城ほど観光客はいなく、静かな場所です。首里城と同じく、ユネスコの世界遺産に登録されています。

県教育委員会の資料より
 首里城西方にあり、尚真王が先王尚円の遺骨を見上森より移葬するため築造したのにはじまり、尚円王統歴史の陵墓となりました。
 陵墓は内外の二郭より成り、各郭は高い石垣によって画され、全体として北面し、まず外郭は庭に珊瑚礁の細破片を敷きつめ、向かって左側に西面して「たまおとんのひのもん」(1501年)が建ち、内郭に入る石門には、石造・四柱造の屋根を冠する。内郭も庭に珊瑚礁細破片を敷き、正面の墓堂は半ば背後の自然崖壁を利用し、半ば壁面に築造され、大別して中央および左右の三墓堂に分かれています。中央部には洗骨前の遺骸を納め、その左すなわち東側の墓堂には洗骨後の王および王妃、西側の墓堂にはそれ以外の家族の遺骸を納めました。これらの墓堂はともに石造り、その前面に石の階段を設け、堂前の露台に上がる。露台の前面には彫刻を施した匂欄が設けられています。1934年(昭和9)尚典候婦人を葬り、石扉を鎖したのが最後であるといわれます。
 陵墓は石造りだが切妻屋根の木造建築を表現し、屋根を板葺き形式の平瓦段葺きとし、軒は垂木型を彫り出しています。前面基壇の高欄には動植物などの彫刻を施し、棟には三つ巴の家紋や牡丹・唐草・宝珠等を彫り込んでいます。左右両袖塔上には陵墓を守護する形で石彫りの獅子像を据えてあります。

玉陵


玉陵


 場所は守礼の門から西に少し向かった所、城西小学校のそばです。
 玉陵事務所の地下には資料館もございます。



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| 21:00:35 | Trackback(0) | Comments(0)
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